1983年

◆国立大蔵病院小児科心理外来の臨床心理担当として週1度の院内カウンセリングを前任者より引き継いだ伊澤正雄さんが、業務範囲では対応しきれないケースに対するケアとして、「若手臨床心理家の会」を結成して、院外カウンセリングを開始。

1984年

◆上記院外カウンセリング強化のため、社会事業大の学生を家庭教師兼カウンセラー(現在で言うディベロップメンタルサポーター=DS)として起用

1985年

◆その後も増え続ける登校拒否、学習障害、自閉等の子供達に対する個別の対応のために、早稲田大学の教育心理学教室の学生にも協力を依頼し、学生のグループが出来る。発達共助連の原型である。

1986年

◆学生の臨床的資質の向上を目的として江戸川学園の重村さんを助言者に、学生たちによる勉強会が始まる。(心理テストの学習)
また、東京都杉並区を中心に相談が増え、学生グループが動き出す。
◆学生たちを中心とした野外活動の実習を神奈川県厚木市郊外の中津川で行う。この野外活動<キャンプ>はその後、「放牧会」と名付けられた。

1987年

◆勉強会を、中野療育センター(当時)の大橋さんを助言者として定例化、<学習会>となり、テキストとして<ことばの前の言葉>を使う。
◆杉並区久我山小学校教諭(当時)の五十嵐寿さんなど学生以外の教育関係者が加わる。
◆学生グループ主催で春・秋2回の<中津川ハイキング>を実施。参加者は各回45名程度。

1988年

◆学習会で、ケース検討を通して学びあう。
◆中津川ハイキングが年5回実施となり、これに加え、12月に「おいこら!マサオクラブ」の名称で1泊2日の<親子スキーツアー>(バス1台チャーター)を実施。初めて会を名乗る

1989年

◆学習会では<講座発達障害2行動>を読む。
◆中津川ハイキングを5回、2泊3日のスキーツアー実施。
◆正式に「何らかの名称を付けよう」との機運が出てくる。そして、<トラブルの会>と呼ぶことに決定。代表に伊澤正雄さん、副代表に大橋雄治さん、事務局として森田麻実さん(事務局長/当時・早稲田大学)、正木香代子さん(当時・社会事業大学)、山崎隆浩さん(当時・早稲田大学)、松宮かおりさん(当時・社会事業大学)。

1990年

◆お母さんグループ台頭。学習会、中津川ハイキング、スキーツアーが定例化する。

1991年

◆漠然としたグループ名を改め、<発達共助連>として正式に発足。(3月17日・旗揚げ式)
◆当時高校生相当児を中心に、中学生の不登校児を核として、フリーな空間として「メディア局」がスタート。勝手に子供たちだけの活動を奨励することの実験が始まる。

1992年

◆連員数の増加に対応するために地域連を形成。(千葉連・荻窪連・久我山連・大蔵連)。学生グループのほかにお母さんグループの活躍が始まる。
◆子供たちのメディア局は、発達共助連の中の一つの連として独立。子供たちは、大人たちの検閲一切なしの機関誌「碧瑠璃」「更紗」(いずれも自分達で勝手に命名)を発達共助連機関誌として作成し始める。
「餓鬼連」としての活動も開始する。子供たちだけで、「流浪」と称しJR青春18切符を利用した<流浪の旅>が始まる。夏にテントとシュラフだけで1週間程度勝手に旅をする行事である。
◆連としては、定例行事に加え、中津川サマーキャンプ(2泊3日)・忘年会を実施。活動の企画・実施の中心が、学生から母親へと移行しはじめる。
◆中津川ハイキングを「デイキャンプ」と改名、多い時は参加者が100名を超すようになる。

1993年

◆この年より、スキーキャンプを新潟県湯沢町の土樽スキー場で実施。

1994年

◆家族連員が増え、それまで曖昧さが売り物であった連の組織的形態を整える必要に迫られ、発達共助連としての組織づくりが進む。公式に連代表をおき、また活動内容別に事業セクションを設け、それぞれに責任者をおいた運営形態となる。
◆デイキャンプ、サマーキャンプの実施に餓鬼連が中核となって加わる。各回のキャンプ参加者は50〜70名。
◆家族連員の増加に伴い、「荻窪連」「久我山連」をあわせ「杉並連」に改称、新たに「世田谷連」「多摩連」が加わる。また機能連として新たに「助っ人連」が構成される。学習会が月例会となり、誰もが参加出来る情報交換と学習の場となる。
◆院外カウンセリング専用に電話を1回線増やし、受信専用、発信専用の2回線体制となる。
◆餓鬼連・メディア局主体の不定期機関紙「碧瑠璃」「更紗」は、メンバーの受験・進学に伴い、11号にて休刊。

1995年

◆相談担当セクションメンバー(現在のアドバイザー連員)・学生連員が研修を兼ねて国立大蔵病院の心理スタッフとして関わりはじめる。以降、毎年2、3名が研修を兼ね、学校や各種教育機関との連携づくりのため、病院の心理スタッフとして活動。
◆「発達共助連の原点」を成文化。
◆従来、規約も決まりも文章化されたものはなかったが、この年初めて「発達共助連の約束事」と題する決まりを成文化。

1996年

◆それまでの餓鬼連は、子供たちの成長に伴い「流浪連」と改称し。セクション化。
◆地域連としての「千葉連」消滅。

1997年

◆大蔵病院心理カウンセラーに窪理佐さんが加わる
◆この年より、サマーキャンプを群馬県東村の「わたらせ渓谷」で実施。
◆「こまえ乗馬フェスティバル」に発達共助連として有志が参加を始める。
◆院外電話相談のシステムのあり方の検討が始まり、ダイアルQ2を導入に取り組む
◆連員全体に呼びかける「花見会」を初めて開催。
-1996年〜1997年にかけて家族連員が増加し活動は順調に行われるものの、連としては停滞期。学生の活動が停滞期に入り、決まったことをそれなりにやっていけば良いという、他人頼みの風潮、仲良しクラブ的な雰囲気はびこる。

1998年

◆「発達共助連」の「共助」の名に相応しくないほどの人任せの風潮から「解散」一歩手前となる。運営のあり方をめぐって一部の人に依存しすぎている事の反省から、新しい体制で全員参加型の形で再スタートすることを確認。
◆運営委員会を新たに設置、発達共助連運営の中心とする。また、連副代表も2名選出
◆「発達共助連の約束事」を廃止し、新たに「規約」を設ける。
◆大蔵病院心理カウンセラーに奥村朋江さんが加わる
◆国立大蔵病院の2001年センター化に向けて、これまでの連携の在り方を再検討。子供たちを囲む大きなネットワークの要として機能出来る体制作りを始める。
◆これまでの学生家庭教師兼カウンセラーを<ディべロップメンタルサポーター…D.S>と命名、DSを子供たちを支援していく中心に置く。
◆学生連の独自勉強会始まる。
◆親同士の情報交換や親睦の場として「母の会」を設置。
◆「発達共助連のご案内」三つ折りパンフを作成

1999年

◆電話相談システムの再検討により、公衆電話・携帯電話からの通話が不可能なダイアルQ2を廃止。カウンセリング専用のファックス電話で対応することに決定。
◆国立大蔵病院の心理関連の再編<成育心理外来の誕生>を、連として全面的にサポートしていくことを確認。
◆連副代表を3人制に移行
◆地域連として「神奈川連」、機能連として「亜土連」(アドバイザー連)をそれぞれ新設。従来の「学生連」は、「DS連」に発展的統合。「流浪連」を廃止。
◆「母の会」を「やってみよう会」に改称。<地域―学校―各種教育機関―病院>という子供たちをとりかこむ環境整備を子供の側にたって考え支援していく方針を確認。また、母親自身のケアが必要な場合の受け皿として機能させることも確認。
◆インターネットホームページを立ち上げる。(5月19日)
◆リーバイ・ストラウス・コミュニティ活動基金(財団法人・日本国際交流センター内)より、「ディベロップメンタルサポーター(DS)育成・技術向上事業」に助成金を得る。(11月30日)
◆「ディベロップメンタルサポーター(DS)育成・技術向上事業」を開始
◆アドバイザー連員によるネットワークケアに関する学会発表、講演等多数

2000年

◆DSリーダーを週2日委嘱配置(2月)
◆スキーキャンプ、サマーキャンプ等へのDS参加者への助成を開始(1月)
◆スキーキャンプを2回開催
◆発達共助連の特定非営利活動法人格の取得申請を総会で決議(4月)
◆行動観察・講義等記録用ビデオカメラを購入
◆第1回DS養成・技術向上講座を開催(6月30日〜7月2日の3日間)
◆検査用具「WISC-III」を購入常備
◆月例カラオケ会スタート(6月)◆この年よりサマーキャンプを、千葉県房総半島のララミー牧場で開催
◆特定非営利活動法人として東京都より設立認証(11月10日)、11月17日設立登記完了
◆前年に引き続きリーバイ・ストラウス・コミュニティ活動推進基金より「ディベロップメンタルサポーター(DS)育成・技術向上事業」に関し2001年での助成が決定

2001年

◆2000年度第2回(2001年第1回)DS養成・技術向上講座を開催(3月4日)
◆この年もスキーキャンプを2回実施