毎月発行の発達共助連の機関紙「共助連通信」は、1998年5月号より連員による
リレーエッセイ「私にとっての発達共助連」を随時掲載しています。
発達共助連という組織、そして各連員の関わりがお分かりいただけると思います。

◆箱入り娘の受けた冷たい洗礼のショック     綿谷 真理子 
(DS連員) 共助連通信02年9月号
高校を卒業した年の3月の月例会に行ったのが共助連初参加。
箱入り娘の私は、今まで母にベタっとくっつきながら、大人の世界と関わっていたで、みんな親切で、可愛がってくれていたのが、今回は誰も相手をしてくれない……!
今まで、感じたことのない居心地の悪さを感じ、母なしでは、どうすることもできない自分に気付いてしまい、ショックだった。
本当に、居心地の良い場所とは、誰かが用意してくれたものではなく、自分の手で失敗を繰り返しながら、始めて得るものだと、感じている。
たくさんのヒントを自分のアンテナで感じながら、相手の伝えたいと思っていることに気付いて、変化していく術を身につけていきたい。
共助連でたくさんのお父さん、お母さんと出会い、私の両親にはない家庭的な部分に触れることができて、その度に子供に戻ってしまう私がいます。
私の中のもう一人の自分が、満たされない思いからか、理想の親を求めているのかもしれません。
いつも、勝手な私に優しくしてくれること、本当に感謝しています!
◆−立場の変化/気張らずに、ごく自然に…−  山田 文雄
(DS連員) 共助連通信02年7月号
不登校OB(そんな言葉ある?)になるのかな…。
気が付くと共助連に関わりだして(お世話になって)、はや10年ほどにもなり、私
のここでの立場も年々変化してきていると感じます。

が…変わらないこともあります。
参加することも、できなかった。
参加することしか、できなかった。
ただ眺めてた。
何かを、させられた。
何かを、した。
今は、気を配ること。(ほけっと見てるだけともいう…かな)
いつのどの時期でもしていたこと。

それは、
〈誰かの助けになっていて、誰かの助けを受けているということ。〉
どんな立場であったときも、このことだけは存在している気がする。
これが私のなかにある「私にとっての発達共助連」の基幹部分です。
どんなでも、お互いに助け助けられる場の力。
糧にしようと気張るのではなく、ごく自然に。

感じ方は人それぞれ、
私ではない方はどう感じていますか?何を求めていますか?
◆−ある対話−               竹中 良太
(DS連員) 共助連通信02年5月号
「あのさぁ、共助連ってなんだろうねぇ。」
「さあな、人によって感じ方は違うんじゃないか?」
「まあ僕にとって、なんだけどねぇ。家族って表現は?」
「第2の両親がいて、兄弟がいてってか?ちょっと大げさな気もするがな。」
「第2の家族は?」
「大差無いな。」
「行き付けの居酒屋は?」
「却下。」
「じゃあ学校。」
「だいぶ近いかもな、先生がいて、生徒がいて、教育実習生がいて。両親までいて、毎回授業参観だな。」
「仲良しのご近所さん、同じマンションの住人は?」
「確かに。でもお前にとって、だからなぁ。やっぱり一言で表現するのは難しいんじゃないか?」
「んじゃあ第2の家族のいる学校のような、居酒屋のあるマンションは??」
「……勝手にしろ!」
◆−出会いに感謝−               佐久間峯子
(家族連員) 共助連通信02年3月号
◆−今改めて思うこと−             渡部 清美
(家族連員) 共助連通信02年2月号
先日、家族だけで土樽にスキーに行きました。共助連で行くのとは違い、スキー、食事お風呂以外の時間は部屋から出ることもなく、ゴロゴロテレビを観ているだけ!つまらないので9時頃には就寝でした。スキーもただ滑っているだけでは時間が無駄に過ぎていくようで、2日目に私だけ家族の承諾を得てスクールに入りました。主人と子供達は、子供二人だけで滑ったり、3人で並んで練習してました。
土樽スキー場は、ほぼ貸切で、ゲレンデにインストラクター10人、生徒6人、その他のスキーヤーは、私たち家族+3人程で、ゲレンデに流れる曲が、妙にもの悲しく感じました。いつもより早めにあがった割にはとても疲れました。なんだか満足度が違うんですね。
私たち家族が共助連に参加して早9年目です。いつの間にやら過ぎていったのですが、子供達は私よりも大きくなり、着実に成長しています。そういう流れを9年間一緒に観ていただいていた、助けていただいた仲間がいることは、かけがえのないものと感じてます。
いろんな世代の方々とワイワイがやがやが、い いんですよね!スキー技術が上達することだけ でなく、それを一緒に感動してくれる仲間があ って楽しいのですよね。
主人がいつも言います、共助連は、昔で言う隣 近所のお付き合いのような関係だと。
この仲間でなら、あのコマーシャル「子供から、逃げるのやめませんか」が出来る気がします。
そんな風に共助連の関係がいろんな方向から私 を支えてくれていたのだと、つくづく感じた旅 行でした。
◆今分かった「私にとっての共助連」       五十嵐 寿
 (アドバイザー連員) 共助連通信00年1月号
もう3年前になるでしょうか。ニュース担当の平木さんから表題のテーマで原稿依頼を受けながら,数日後に「書くことが決まらない」と、おことわりをしたのは。平木さんの「いずれそのうちに」の返事にすくわれ、その気でいましたが、私の中では、かげをひそめていたようです。
それが、1月10日の夜、突如として浮き出したのです。平木さんからの電話は、「暮れの忘年会のようす」の原稿依頼でしたが、「私にとっての発達共助連」は、私のあずかりものであったことを伝え、再び以来を受けたのです。
実は、忘年会でハーモニカのギター伴奏をしてくださった佐久間さんがその翌日にFAX通信をとどけてくださったのです。それへの返信に「私にとっての発達共助連」を書き送ったのです。多少、手を加えたものを紹介します。

 発達共助連とかかわって何年になるでしょうか。今、大学2年の青年が小学校1年のとき担任していたとき以来ですから何と15年にもなります。
はじめのころは、顔ぶれも多くはなかったのにとらえどころがなくて内心は右往左往過ぎてみればそれがよかったようです。いつも見通しをもったくらしになれていた私にとって他とのかかわりで自分の対応をさぐるという経験ができたようです。
 顔ぶれも多くなり、組織らしいものができ「連」の動きもかなり見えるようになるに連れ「私にとっての『連』は?」の問いにすっきりした答えが出せないでいました。
それが何とあの忘年会が答えを出してくれたのです。
  • 楽譜なしでは吹けないハーモニカなのに、小泉さんのさそいにのっかった私
  • ステージに立ったら光が足りなくってところどころかすんでしまったとき、佐久間さんのギター伴奏でささえていただいた私
  • にもかかわらずあつい「アンコール」に「知床旅情」を吹いて応えようとした私
  • 光が足りないんだからハーモニカだけでの演奏は無理!前田さんの歌唱力と会場の人をひっぱりこんでくれたいきおいに会場は盛り上がり、おわりはいっぱいの拍手!
  • ・ それなのに自己嫌悪にならずにすんだ私

70年のわが人生の快挙(?)です。小泉さん・佐久間さん・前田さん・会に集まったみんなによってなしえたことなのです。
それが「私にとっての共助連」

◆エネルギーの源かな?           高橋サカイ 
(家族連員)  共助連通信99年7月号

自分で言うのも何ですが箱入り娘の私が、遊び人の主人と結婚し、3人の子の親となり、そのうち2人はLD…。私の宿命か、わたしの人生か。
前田先生に勧められて、伊澤先生にお会いしたのは、5年程前のこと、その頃始めた瞑想で「今、あなたはターニングポイントにたっている」と告げられ、解ったような解らないような言葉にうなづいていた私でした。
真面目を絵に描いたような私でしたから、子育てが下手なのは、私が未熟だからと、まず、自分を磨き、変えなければと思い込んでいました。
(ねばならない、〜すべきだ、の世界に好んで浸っていたのです)
そこで自己啓発の類のセミナーにいくつも参加し、仕事柄わらべうたに熱中し、これ以上続けるのなら離婚だと脅かされるくらいのはまり方でした。子供達に一番手のかかる時代に私はかなりの時間とお金を費やして、親として自分はどうあるべきかに奔走し、ようやく『私に必要なのは子供のそばにいること』を知ったのでした。
恐ろしいことに何年もかかった末の事でした。こんなに明解で、こんなに基本的で、こんなに大事なことが待ち受けていようとは、思ってもみませんでした。
「自分の足元を見なさい、自分の現実から逃げないようにと」─これがまさに私のターニングポイントであり、それをもっと具体的に教えて下さったのが、伊澤先生でした。
 私は思うように育てられない我子に何度もその怒りをぶつけ、手をあげ、大声を出し、「あなたのせいで私はこんな目にあっている。悪いのはあなたなんだ」。
そして我子をこんな風にしか思えない自分自身に自己嫌悪を抱き、その繰り返しの日々。
「母さんはオレが小学生の頃、何度教えても覚えないって怒鳴ったけど、今、オレがスパゲテイのおいしいゆで方を何度教えても母さんは覚えないじゃないか」と長男は時々言いますが、返す言葉もないほど、ひどい母親でした。
そんな時、伊澤先生を始め、幾つかのターニングポイントとなるものが、私に攻めてきたのでした。我子が、LDであること、育てにくさはLDという気質的な問題からくること、そして、親の対応の仕方などなど、伊澤先生は時間をかけて少しずつ、私に教えて下さり、いつしか、月1回の病院が、待ち遠しく思うようになり、子供より自分自身がケアされていったのです。
 共助連に入って、全てが変わった訳ではありません。相変わらず我子3人には、ハラハラさせられるし、私の未熟もそのままです。しかし、子供を否定しなくなったように思います。更にお酒は、ヤケ酒ではなく、おいしいと自覚できたこと、同じ思いの親がいること、私の話を親身になって聞いてくれ、時には辛口のアドバイスもしてくれる人がいること。それがわたしをどれほど励まし楽にしてくれたことでしょうか。
今、私にとって共助連は、エネルギーの源かもしれません。
 “自分の身に起こる全てのものは、自分に必要だから起こっている

◆子供が学校に行きだした!         松下 裕子 
(家族連員)  共助連通信99年6月号

子供が学校を休み始めたのは、今からちょうど3年前になります。
2学期からは行かれればいいなあと思っていたのに、夏休み明けに「100年間は学校に行きたくない。」と言い出しました。
子供に「100年間行きたくない」と言われ、どう対処しようか途方に暮れていたその年の秋、伊澤先生にお会いすることになりました。
 伊澤先生との初対面のとき、「不登校ということで心の傷にしてはいけない。不登校を勲章にしなければいけない。」と言われ、「100年間行きたくない。」という言葉の向こうに新たな光のようなものが感じられました。それ以来、東名高速を使った往復100kmの大蔵病院通いが始まりました。
 私にとっての共助連は多くの体験をさせて頂いた場でした。
始めて参加したのは千葉での落花生堀りでした。
その後も、デイキャンプ・サマーキャンプ、スキーキャンプ・月例会等を通じて種々な体験をさせて頂きました。
 もともと子供は好奇心が強いので、デイキャンプ・サマーキャンプ・スキーも親子で参加し、子供もとても楽しみにしています。でも出発直前になって子供はいろいろなことが不安になり、なかなか出発できずに集合時刻に遅れることが何度かありましたが、「どこの家庭も大変なのだから気にしないで。できるときにできることをすればいいのよ」という言葉に癒されたものです。
 主人はスキーをやらないので家族でスキーに行くことも無かったのですが、共助連のスキーキャンプのおかげで、家族でスキーに参加することができました。
 月例会では、いろいろな方々のお話が聞けて、自分と同じ境遇の方だったり、「そんな事もあるんだ。」と驚かせられたりし、大変勉強になりました。
また、同じ悩みを持ったほかの家庭の状況も、参考になるばかりで無く、勇気づけられた点もありました。
 日々の生活の中で共助連の占める時間はそれほど多くはありませんが、その中で体験したことの内容はとても貴重で、衝撃的なことも多くありました。
 額にたてじわを寄せている子供を助手席に乗せて大蔵病院に通い始めたのは2年半前のこと。そして笑顔の奥に真に純粋な子供の喜びが出てくるようになった最近、何とか毎日学校に通い始めました。
 共助連を通じて、親子共々数多くの事を体験させて頂きました。

◆<自主的に持てる力を出し合う>ことが連の底力   竹中まゆみ
(家族連員) 共助連通信99年5月号
自己紹介もない、始まりの挨拶も終わりの挨拶もない、へーんな集まりに私がはじめて顔を出したのも今から7年前のことである(正確には7年半前であるが)。それ以来どういう訳かどっぷりと<ISAWA心理狂>にはまり込み、会員No.2(ちなみにNo.1はAさんに取られてしまいましたので)の<狂女連>として、自他(?)共に認める身となった私にとっての始まりは、ISAWAさんの<一言>だったのではあるまいか?
今からちょうど7年前の4月、私が2回目に参加したデイキャンプでのことである。その前年の10月から共助連には参加していたが、根が真面目な私としては中途半端な事が出来ず、10月のデイキャンプには子どもも参加しないのに参加し、月例会にも皆勤していた。しかし、それはどちらかというと<ねばならぬ>参加であって、<したい>参加ではなかった気がする(自分ではあまり意識していなかったが)。
それを見抜いたISAWA先生から声がかかった、「無理して参加する必要はないんだよ」……「え?」……。私の中で何かがかわった瞬間だった。一瞬の間をおいて「好きで参加していますから大丈夫です。」と答えていた。
その時以来ちょうど7年、無理する必要がないからこそ、共助連に関わるどんなことも<やりたいからやっている・好きだから参加している私>を貫いて来られたのだと思う。<お礼奉公>でもなく、<子どものための無理>でもなく。
考えてみればISAWA先生には、最初の出会い……8年前の夏休み、息子の「僕もう学校には行かないよ」の一言からちょうど2カ月、友人の薦めで大蔵病院の伊澤先生の<隔離室>(伊澤先生の部屋の前に書いてある)に座った時から今日まで、さまざまな形で驚かされ、衝撃を与えられ、意識改革を迫られてきた。
いちいち<ISAWA語録>を書き連ねる余裕はないが、こうして改めて振り返ったとき、<空中浮遊よりすごい超能力>を実感せずにはいられない。しかし、そこに<ある種無秩序な><摩訶不思議な組織>である共助連があったればこそ、ISAWA先生をただの<超能力者>に終わらせることがなかったのであろうことにも思い当たる。そして、私自身が<狂女連>を続けて来られたのは、<三顧の礼>も要らない、<請求書>も要らない、それでいて持てる力を<さりげなく>出し合える仲間の存在があったからに他ならない。<自主的に持てる力を出し合う>ことこそ共助連という<曖昧な集団>を維持していく<底力>なのかもしれない。
今はまだ、ISAWA先生というリーダーの後をくっついて飛ぶ伝書鳩である私も、いつかはメダカになりたいと願うのだろうか?
さて、あなたは伝書鳩ですか?それともメダカでしょうか?
◆「改めて」、「あえて」そして「やっぱり」共助連  前田かおり
(アドバイザー連員)  共助連通信99.4月号
自己紹介もない、始まりの挨拶も終わりの挨拶もない、ヘーんな集まりに私がはじめて顔を出したのは今から7年前のことである。近所に住むF君が不登校になり大蔵病院でカウセリングを受けていたのは知っていたが、そのお母さんから誘われるまで、その会のことは愚かISAWA氏の名前さえ知らなかった。<あなたの勉強にも為になるんじやない?>という彼女の言葉につられて阿佐ヶ谷という私にとっては未踏の地へ足を踏み入れたのが、今にして思えばすべての始まりだ。
以来、デイキャンプ、サマーキャンプ、スキーキャンプ、芋掘り、ピーナッツ掘り、ゲーム大会、ディべ−ト大会、お花見会、お茶飲会、昼食会、1日観光母の会、月例会…e.t.c.とさまざまな行事に参加してきた。
また、東京の町外れで小さな塾をしている私のもとに、いつのまにか毎年ISAWA氏の紹介で、1〜2人の受験生が通ってくるようになった。彼らの進路相談を通して単位制高校、専修高校、職業訓練校、通信制高校やサポート校、全寮制の学校や各種専門学校、大検予備校等、これまでは殆ど無知に等しかった<もう一つの選択肢>が、私の中で具体的に見えるようになってきた。
そして数年前からは、大蔵病院の心理スタッフの一員として、あるときはISAWA氏とともに、またあるときは一人で学校や相談所や児童館など、子供たちを取り囲むさまざまな教育機関を訪問するようになった。
そもそも、学校も同じようなものだと思うが塾なんてものは、生徒が通ってきて当たり前、今、目の前にいる<この子>に対して何が出来るのかが常に中心課題で、<来ない子(来られない子)>に対して出来ることはせいぜい<どうしたの?>とか<待ってるからね>とかのメッセージを定期的に送るくらいしかないと思っていた私にとって、ISAWA氏との出会いは<衝撃>だった。  
<こんな事が出来るのか><こんな手があったのか>と、自分の発想の狭さや世界の小ささに地団駄を踏む思いだった。
そんなこんなで7年間、ようやくISAWA氏から<免許皆伝>のほのめかしがあったようなないような私のもとに、突然昨秋、<フリースクール建ち上げ>の話が飛び込んできた。<共助連突撃隊長>の称号をいただく私としては<やるっきゃない…かな>と、病後の私のからだを気遣ってくれる人達の心配を背中に重く感じつつ、10月、狛江に20〜30人が通える<自分達で創る新しい学校一コピエ(KOPPIE)フリースクール>を開校した。
はじめはがらーんと広かっただけのスペースが、共助連やその他たくさんの人達の善意や夢で、日に日に居心地のいい教室へと変わってきた。ホットカーペット、冷蔵庫、TV、座卓、身長計、学習教材機器、ポット、トースター、食器、本、カードゲーム、TVゲームのソフト、窓辺を彩る花、そしてボランティアとして来てくれる不登校OB・OGの子供たち、<お茶できるかな>と差し入れ片手に立ち寄ってくれるお母さん方‥‥e.t.c.
有形無形のこうした応援が、私をそしてこの出来立てのフリースクールを支えてくれている。私にとって今、まさに、<あらためて共助連>を実感することの多い日々である。   
フリースクールが出来て、まずはじめに私がしようと思ったのは、ISAWA氏から学んだ各種機関との連携づくりだ。大蔵病院−ISAWA氏一共助連一各種教育機関、という、見えない信頼に基づいた連携の中でこれまで動いてきた私は、ここで大きな壁にぶち当たった。こうした目にみえない信頼関係は、当然のことながら一朝ー夕に出来るものではないし、一人の人間の熱意や努力のみで築き上げられるものでもない。こんな当たり前のことに今更ながら気付かされることの連続だった。
<連携>と一言で言うのは簡単だが、まずそのためには相手に会うことから始めなくてはならない。ところが診療時間外、保険診療外、守秘義務、その他諸々の理由で、なかなか会う段取りさえできない。やっと出かけていったのに、<うちではそこまでは時間がとれませんので大蔵病院に紹介状を書きましょう>と体よく追い払われたり、はじめての相談所では名刺を置いてくるのがやっとで、靴も脱がせてもらえなかったり、<こんなはずではない>ことだらけの日々。
私一人がどうあがいても今日や明日にどうなるものでもない。ISAWA氏とともにいとも当然の如く行ってきたさまざまな活動が、実は、たくさんの人や時間やその他もろもろの積み重ねの上に成り立っていたこと、そしてその多くが共助連というボランティア組織に支えられてきたことを改めて実感した。ISAWA氏のすごさもさる事ながら、共助連というこの摩訶不思議な組織の持つ力のすごさに気付いた今、<あえて共助連>が私の中で大きな意味を持つに至った。
これまで当たり前のように思ってきたディキャンプや月例会、これだっていざゼロから始めようとしたら不可能に近いことがわかった。いろいろな世代、いろいろな立場、いろいろな思いの人が、ある種無秩序にいるからおもしろい。たとえお金を積んで集めたとしても、これだけバラエティに富んだ人材を確保することは難しい。これも長い積み重ねがあってこそのものだ。
無秩序に見えながら、実はそれぞれがちゃんとその機能を果たしている。これも共助連ならでこそのものだ。
これまで当たり前のように思ってきたことが、いざ、仕事として考えはじめた時それが実は膨大な時間やエネルギーやお金の積み重ねである事を知り、呆然とした。他の病院やカウンセラーや先生方のやる気の無さのように捉えていた私自身の甘さを知るとともに、そこは<あえて共助連>だったから可能だったのだと思いを新たにした。
そして最後に、何といっても<やっぱり共助連>。  
この7年間の私の生活を、こんなに豊かではりのあるものにしてくれたのは<やっぱり共助連>。楽しいこと悲しいこと、嬉しいこと、つらいこと、悔しいこと、いろいろなことがあった。そのつど、思いを<共有>出来る仲間たちがいた。ある時は子供たち、ある時はおとな達。
まるで<メダカの学校>の様なこの組織は、誰が生徒で先生か全くわからない。ISAWA氏もその中を泳ぐタフな太めのメダカなのだろう。まさに、<共助>のこの集団は、その時々で形を変えながら、これからも多分私の生活の大きな部分を占めて行くのだろう。<ISAWA心理狂>の<狂女連>になるまいと格闘を掛けてきた私の、7年目の着地。あらめて共助連、あえて共助連、やっぱり共助連…。
あらゆる立場の人が、その人なりにいかされ、癒され大切にされているこの組織の中で、私も曖昧な川を泳ぐ元気なメダカの一匹でありたいと思う。
昨春、共助連が大揺れにゆれた時、私は大蔵に入院中で、よく回らない頭でぼんやりと、存続の危機を感じた。その時はまだ共助連を、ISAWA氏をリーダーとする伝書鳩の群れのように感じていたから…。
1年後の今の<私にとっての共助連>。やっと書くことが出来ました。
あなたにとっての共助連って…何?聞かせて下さいね。
そう、次はあなたにバトンタッチ。よろしくね!
◆子の悩み、皆で語れば怖くない   小野塚ちあき 
                    (家族連員)共助連通信98.10月号
我が子が不登校!?どうしてどうしてウチの子が…?
伊澤先生は「いつでも、どこでも、誰にでも、それが不登校」なんておっしゃるけれど、よその子はちゃんと学校に行ってるじゃない。何なの一体。この先どうなるの……。
驚き、怒り、悲しみ、憎しみ、絶望……あらゆる負の感情でパニック状態に陥っている時に誘われて、内心しぶしぶ出かけて行った中津川のデイキャンプ。驚きでした。皆の表情の明るいこと。
それぞれ子供の悩みをかかえているはずの親達も、そんな「親の心、子知らず」の子供達も、めいめいが思い思いのやり方で楽しんでいる姿に、目からウロコが落ちました。
「子の悩み、皆で語れば怖くない」……。たとえ一時でも人生終わったような心境にいた私に、まだまだ甘い、人生これからなんだものがんばらなくっちゃと元気をくれました。あれから三年。共助連とはこれからも長いおつきあいになりそうです。私に一体何ができるか判りませんが、皆さんの明るさ、パワーを吸収しに、これからもデイキャンプ、勉強会に出かけて行こうと思います。
◆自分を磨く場           岡本 一 (DS連員)
                          共助連通信98.7月号
僕自身にとってこの共助連に参加することの本当の意義は、勉強して知識を学ぶことよりも子供達に出会えることです。確かに共助連にくる子供達はある意味問題をかかえている子供達が多いかもしれません。見方を変えるとすごく個性豊かな子供達であり、彼らとふれあうことにより自分にはない感性や考え方に出会うことができるのです。
僕は共助連によって、これから本当の意味で大人にならなければならない自分にとって、子供時代の財産である純粋な感性を思い起こす場だと考えています。だから自分を磨くためにもこれからも機会があればキャンプなどで子供達と関わりたいと思います
◆多くの経験から学ぶ      渡部 純一 (家族連員・連副代表) 
                      共助連通信98.4月号
私は共助連を通していろいろな問題をもった子供たちの親に接することが出来ました。
このことは、私にとって大きな意味を持っています。子供の世話は母親にまかせっきりで、問題が起きてもどのように対応すればよいのかわかりませんでした。
しかし、いろいろな経験を持った他の父親と話す機会が出来たことにより、対応のしかた、接し方が変わりました。
これから起こりうることを、経験をもった父親たちから話を聞けるということは、大変大きな励みになります。
今後、新しい人たちが入ってくると思いますが、そのときは私の経験を話すことが出来るよう、共助連がなくならないよう協力したいと思います。
◆Will you stay with me?    Momoyo Koizumi (アドバイザー連員)  
                           共助連通信98.4月号
共助連の集まりに初めて足を運んだときの事を思い出す。日中はオフィスであるその空間は、喧噪と離れて夜の闇の中にあった。私は多分遅刻して気まずい思いで到着したように思うが、当時の自分の日常から非日常へと足を踏み入れたような新鮮さを記憶している。
専門書の輪読は何やら興味をさそいはしたが、「一体自分が何故ここへ来たのか」考える余裕はなかった。成り行きで動いていると思っていた。やがて非日常の中へ日常がなだれ込み、時間も空間も連続性を持っていった。改めて「ここへ来た自分」を意識した。自分の中にある違和感が何かを期待させたのだと思う。共助連の中での私は、この違和感と向き合っていた。
様々な方々との関わりの中で、自分自身のスタンスを定めることが大きな課題でもあった。目先のことそれ自体に特別の意味はない。ただ、関わることの中で結果的に多くのものをいただいた。無形のエネルギーといって良いだろう。
自分が一つのコマであることを実感した時、また同時に多くのコマが共にあることを体感する時、人は「生きていることの喜び」をしみじみと味わうのではないだろうか。
p.s.ガラにもなくマジメなことを書いてしまったが「これも私です」。
◆「私にできること」が…     笠井 清美 (家族連員)   
                           共助連通信98.4月号
連員になってもう三年半になろうとしています。今の私にとって共助連とは「明日へのエネルギー」、絶対に存在しなくてはならないものだと思います。勇気をもって自分の思いや考え、悩みなどを出すことによって、きっと何かが見えてくるはずです。そしてまた、そのことに真剣に耳を傾けて聞いてくれる人がいるはずです。そのことでお互いプラスになれば最高じゃないですか。
自分が今どうしたいのか。どうありたいのか。何かに必死であること、そのことが明確であればあるほど、おのずと答えがでてくるのだと思います。