◆鈴木 晶子さん
養成講座の全日程を通して感じたことは、DSとして活動するにあたり、想像していた以上に難しい活動であるということでした。だからこそやりがいのある活動だと思うのですが、いままで私がしてきた活動や経験を通して学んできたことの領域をはるかに越えていました。そして、これから私はDSとしてどこまで膨らんでいけるのだろうと。
私が講座を通して求められていると考えたDS像は、子どもとじっくり向き合い、その子どもを理解し、その中でDS自身の持っているものをフル活用し、DSとしての自分に足りないものは補っていき、その子どもの持つなんらかの課題を子どもが達成する援助をする役割だと思いました。一見あたりまえの姿勢ですが、自分の力量を考えると果たして自分にDSが務まるだろうか、それだけのものに応えるだけのものを自分は持っているのだろうか、という思いが生じました。しかし、求められるDSに近づく為の第一歩が先日の養成講座であったと思うので、講座で学んだことを活かしながら活動していきたいと今は考えています。
◎人の発達を考える(加藤啓先生)
この講義で一番心に残っていることは、子どもが外界を認識するようになり自我が芽生えてくるという過程についてのお話でした。人が自分自身を認識し自己意識・自己概念を形成していく中で、自分ではない他のものを区別し、それらに囲まれているものを自分自身として認識していくという話の流れの中で、加藤先生がされた『ゆがんだ鏡』のお話がとても印象に残っています。
自分自身や他者に対して認識にゆがみのある子どもは、自己概念を形成する過程でゆがんだ鏡の中におかれてしまったのかもしれない、というところです。そういう人の前に援助者として自分が存在するとき、私には何ができるのだろうか、何から始められるのだろうか、と考えました。
その人の世界観で世界を見ているわけではない私からは、その人のものの見方はゆがんで見えるわけですが、本人からしてみればそう見えるものであり、それがその人のあり方だとすると、まずはその人の世界観から知っていかなくては始まらないのだと思いました。その人が世界をどうとらえているか、なぜゆがんで見えるのか、なぜゆがんで見えるようになったのか。“相手の枠に立ってみる”というのは援助の基本だと頭ではわかっていましたが、『なるほど、そういうことなんだ』と改めて思った題材でした。
また、共助連では障害を持つお子さんと接する機会も多いと思ったので、乳幼児のたどる運動機能の発達段階についても勉強する必要があると感じました。加藤先生の講義の中では『遊び』の部分で扱われていましたが、私たちからすると簡単で些細な運動でも、それなりに発達段階をクリアしていないと難しい課題が日常生活においてもたくさんあることを再確認しました。運動能力の未発達なお子さんに会う場合はこの点も考慮に入れて課題などを考えながら活動していくことになるのだろうと思いました。
子育て環境に何が必要かというところで、援助者として子どもに関わっていく自分と、母親になるであろう自分として、講義を聞いていました。
呼べば応えるという応答性のある環境を子どもとの間でいかに自分がつくっていくか、これは活動においても求められるものであり、自分自身がやわらかい状態で活動しないと子どもの求めを拾うことはできないし、そのような環境もつくっていかれないと思ったので、余裕を持つことにつながるよう経験を重ねていきたいと思いました。
◎ 教育学(東宏行先生)
不登校の男の子の話のなかで、『自由にしてください』と言われると怖いんだというくだりで、“自由な時間は何をしていいのかわからないから怖い”という背景には主体性を求めるメッセージを送られると緊張してしまうためであるというお話がありました。
やはり実際、自分自身も受動的な子が増えているような気はしていて、主体的に選択できないからこそ、それを求められるところを回避してしまう傾向が生まれてくるのではないかとも思っています。しかし主体性を求められると緊張してしまうというのは、主体的に選ぶことができないのか、主体的に選ぶ方法を知らないのか、どちらなのだろうかと思うのです。私としては後者ではないかというのが(願望ですが)あります。
主体的に動くことができない子どもと関わるとしたら、私には何ができるのか。私が会ってきた不登校のお子さんの中にも「自分が食べたいものを選べない」という子がいました。食べたいケーキが選べないのです。二つしかないのに。初めは好みがないのかとか遠慮しているのかなとか思っていたのですが、とにかく主体的に何かを選ぶということが苦手な様子でした。その子に対しては『今日はこういう気分だから私はこっちを食べよう』とかなるべく彼女の選び方の選択肢が増えたらいいなぁと思い、ことあるごとに声をかけました。この関わりが彼女にどういう影響を与えたのかは残念ながら定かではないですが、私は不登校のお子さんの訪問活動をする際には自分自身の役割としてそういうもの(選択肢を増やす)も含まれているのではないかなと考えています。
この場合では選び方の選択肢でしたが、考え方の選択肢や感情の選択肢やパターンを増やすという部分も担う存在になりうると思っています。
また、援助をしていると援助者に対して被援助者を内面から服従させてしまう可能性があり、援助(care)をする際には適当な距離をとり、時には壁を作りなさいというお話がありました。これも自分自身に照らし合わせてみると、この適当な距離をとるのは非常に難しいことで、やはり訪問活動をしていると、そのご家庭に入ることになり、家族の方や本人と適当な距離がとれなくなってしまう可能性が多分にあり、このあたりは気をつけながら活動しなくてはいけないと思いました。また援助の姿勢として、東先生が何点か挙げられていましたが、これも活動をしていると見失いがちになる視点だと思うので、これを心にとどめながら日々自己点検をしながら活動していきたいと思っています。
◎ DSへのメッセージ(依田好照先生)
依田先生のかもし出されるオーラから、先生のような方が傍にいてくださったらきっとみんな元気になっていくんだろうなぁと思いながらお話を伺っていました。温かくゆったりと見守ってくださっていると生徒達は感じるのではないでしょうか。そんなオーラがまとえるようになりたいと思いました。
卒業生の方のお手紙を読んでいただきながら、「人を支える」ということは、どういうことなんだろう、私にできる「支えること」とは何か、と思いました。援助者としての自分を、自分の個性を確認したくなりました。これはこれから深めていきたいテーマです。
あと、さまざまなゲームを通じて先生がおっしゃっていたこと―『固定観念の見直しが必要である』―はまったくそのとおりで、常に自分自身を点検しながらやわらかくおだやかにほがらかにありたいな、とDSとして以前の自分自身に跳ね返ってくる講義でした。
◎発達障害をもつ子どもの理解と対応(名越斉子先生)
名越先生の講義はとてもわかりやすく、実践に即した対応のしかたについても丁寧に触れていただき、発達障害を持ったお子さんと接したことがほとんどない私としては、とてもありがたい内容でした。
しかし、その子どもの障害に合わせた対応の仕方はわかりやすかったのですが、いざ自分がかかわることになったとき果たしてどこまで機転が利くのだろうかと不安にもなりました。もちろんまだやっていないので今から心配するなんて気が早いとも思うのですが、それこそ自分の対応のレパートリーを増やすためには今後もいろいろ学んでいかなくてはならないなと思いました。
先生の講義の中では対応するときの具体的なポイント(根気よくゆっくりと体験的な学習をすすめる、その人のレベルに合わせてやっていく等)と、各障害別の対応するときの注意点を細かく教えていただいて、小学校の身障級の介助員をしていたときに知っておきたかったと思うことばかりでした。
私がかかわるとして難しいだろうと思ったのは、例えば知的障害のボーダーラインの子どもなどが抱えてしまうであろう二次的な問題や、学習障害の子どもの社会性・運動・注意・情緒などのケアをすることになったとき、自分自身はどこまで障害を理解してあげることができて、きちんと役に立つ活動ができるのだろうかという部分です。先生は『適度な経験をさせてあげること』の重要性をおっしゃっておられましたが、この適度をいかに見つけることができるかがポイントになってくると思うので、いろいろな経験をして勘を養っておきたいと思いました。
◎ 不登校―概論、DSとしての留意点―(馬場康弘先生)
馬場先生の講義では、他の参加者と意見交換をしたりするなかで、自分自身の不登校・登校・学校に対する考え方が確認できたり、他の人たちの考え方を知ることができておもしろかったです。
また、私は他の団体で不登校のお子さんとかかわっていることもあり、今までの自分自身のかかわりに対する振り返りがありました。果たしてあれでよかったのだろうか、私は何ができたのだろうか、私は何だったのか。
馬場先生はDSとしての活動について『相互作用でものごとが進んでいく、一方的ではない。相手の様子を見てやり方を決めてゆく』とおっしゃっていました。前半部分の相互作用でものごとが進んでいくと言うのは、実際自分自身でも活動をしていてそれは感じていることなのですが、相手の様子を見てやり方を決めていくという部分で自分はどうしてきただろうかと思ったのです。
今まで“この子とはこういうやり方でかかわっていこう”と考えたことがなかったのです。相手を見てこちらの出方を考えるというところまでは同じですが、その都度その都度、自分自身の役割を変えながら活動をしていて、『やり方』といえるところまではしてきていなかったなと。こういった場合の『やり方』というのはどういうことを指すのでしょうか。目標をもってそれに向かって活動することなのでしょうか?とても細かいことだとは思うのですが、このあたりは知りたいところです。
自分自身の学校観を問う必要性についてもお話がありましたが、先日の講義では自分自身の学校観がメンタルフレンドを始めた当初とは変化してきていることがわかりました。以前は“なんで行かれないの?”と相手を問い正したくなるような気持ちがありました。彼らが学校に行かれない理由が何故だか、まったく分からなかったので。
現在メンタルフレンドをしている私にとって学校という場所は、今でも決して行かなくていい場所ではありません。行けるものなら行ったほうがいい場所だと思っています。というのは学校は同年代の子ども達とかかわることのできる唯一の場所だからです。いつか社会に出て行くときにこの同年代の子どもの中で学んだことが必要になってくると思っているので、戻れるのであれば戻って行ったらいいと考えています。でも、行きたくなければ、行かれないのに無理して行くことはないと思っています。発達共助連のDSの考え方にこれは沿っているのでしょうか?これもDS自身の采配に任されているのでしょうか?
また私自身になかった視点として、子どものネットワークをひろげる存在としてのDSというものです。子どもを取り巻く環境を変化させるということでしたが、これはどこまでの環境のことなのでしょうか?一番小さな環境である家庭は第三者が入ってくることで自ずと変化してくると思うのですが、ネットワークということは地域も含まれているということですよね?そういった場合、DSとしてはどうやってその子どもの世界を広げていったらいいのでしょうか?この辺も知りたいです。
子どもにとってのDSがモデリングの対象であり、学習の遅れをカバーできる存在であり、今の子どもにポジティブなメッセージを送れる人であるというのは、本当にそのとおりだと思いました。
だからこそ、自分自身が彼らのモデルとして取り込まれたときにどのような影響を与えるのかということを留意しながら活動しなければならないし、再登校したいと思ったときに一番のネックになってくるであろう学習の遅れに対するケアができるよう準備も必要だし、ありのままを受け容れてあげられる存在でいられるよう心がけたいし、DSの果たす役割とその影響は大きいと思いました。
最後に各DSの持ち味が活かされて活動できるようにとのお話がありましたが、これを伺って、私は自分自身のやっているメンタルフレンドグループでのキャプテンとしてのあり方を見直すようになりました。DSの活動としてということとはずれてしまいますが、メンバーの失敗を心配するあまり、それぞれのメンバーが自分自身の持ち味を確認する前に私が枠を作ってしまっていたように思うんです。いろんなことをやってみて、失敗してみて、そんな試行錯誤の中から自分の持ち味がわかってくるわけですから。自分自身もそうだったのになかなかそうやって人を育てることができなくて、これからのキャプテンとしてのあり方を少し変えてみようかなというきっかけをいただいた一言でした。
<終わりに>
レポートをまとめてみて、『やはり経験してみてからいろいろわかってくるものだ』という感じを強くもちました。
基本は『自分で気づく』なんですね。これからこの三日間で学んだことを膨らませながら活動に活かしつつ、私独自の持ち味を探索していきたいと思います。書き始める前は弱気でしたが、今はとにかくやってみようと、そういう気持ちでいます。三日間どうもありがとうございました。
(駒澤大学大学院修士課程2年) |