以下は、2000年7月開催のディベロップメンタル・サポーター(DS)養成・技術向上講座を受講されたDSおよびその候補生の受講感想の1部です。

◆鈴木 晶子さん

養成講座の全日程を通して感じたことは、DSとして活動するにあたり、想像していた以上に難しい活動であるということでした。だからこそやりがいのある活動だと思うのですが、いままで私がしてきた活動や経験を通して学んできたことの領域をはるかに越えていました。そして、これから私はDSとしてどこまで膨らんでいけるのだろうと。
私が講座を通して求められていると考えたDS像は、子どもとじっくり向き合い、その子どもを理解し、その中でDS自身の持っているものをフル活用し、DSとしての自分に足りないものは補っていき、その子どもの持つなんらかの課題を子どもが達成する援助をする役割だと思いました。一見あたりまえの姿勢ですが、自分の力量を考えると果たして自分にDSが務まるだろうか、それだけのものに応えるだけのものを自分は持っているのだろうか、という思いが生じました。しかし、求められるDSに近づく為の第一歩が先日の養成講座であったと思うので、講座で学んだことを活かしながら活動していきたいと今は考えています。

◎人の発達を考える(加藤啓先生)

この講義で一番心に残っていることは、子どもが外界を認識するようになり自我が芽生えてくるという過程についてのお話でした。人が自分自身を認識し自己意識・自己概念を形成していく中で、自分ではない他のものを区別し、それらに囲まれているものを自分自身として認識していくという話の流れの中で、加藤先生がされた『ゆがんだ鏡』のお話がとても印象に残っています。
自分自身や他者に対して認識にゆがみのある子どもは、自己概念を形成する過程でゆがんだ鏡の中におかれてしまったのかもしれない、というところです。そういう人の前に援助者として自分が存在するとき、私には何ができるのだろうか、何から始められるのだろうか、と考えました。
その人の世界観で世界を見ているわけではない私からは、その人のものの見方はゆがんで見えるわけですが、本人からしてみればそう見えるものであり、それがその人のあり方だとすると、まずはその人の世界観から知っていかなくては始まらないのだと思いました。その人が世界をどうとらえているか、なぜゆがんで見えるのか、なぜゆがんで見えるようになったのか。“相手の枠に立ってみる”というのは援助の基本だと頭ではわかっていましたが、『なるほど、そういうことなんだ』と改めて思った題材でした。
また、共助連では障害を持つお子さんと接する機会も多いと思ったので、乳幼児のたどる運動機能の発達段階についても勉強する必要があると感じました。加藤先生の講義の中では『遊び』の部分で扱われていましたが、私たちからすると簡単で些細な運動でも、それなりに発達段階をクリアしていないと難しい課題が日常生活においてもたくさんあることを再確認しました。運動能力の未発達なお子さんに会う場合はこの点も考慮に入れて課題などを考えながら活動していくことになるのだろうと思いました。
子育て環境に何が必要かというところで、援助者として子どもに関わっていく自分と、母親になるであろう自分として、講義を聞いていました。
呼べば応えるという応答性のある環境を子どもとの間でいかに自分がつくっていくか、これは活動においても求められるものであり、自分自身がやわらかい状態で活動しないと子どもの求めを拾うことはできないし、そのような環境もつくっていかれないと思ったので、余裕を持つことにつながるよう経験を重ねていきたいと思いました。

◎ 教育学(東宏行先生)

不登校の男の子の話のなかで、『自由にしてください』と言われると怖いんだというくだりで、“自由な時間は何をしていいのかわからないから怖い”という背景には主体性を求めるメッセージを送られると緊張してしまうためであるというお話がありました。
やはり実際、自分自身も受動的な子が増えているような気はしていて、主体的に選択できないからこそ、それを求められるところを回避してしまう傾向が生まれてくるのではないかとも思っています。しかし主体性を求められると緊張してしまうというのは、主体的に選ぶことができないのか、主体的に選ぶ方法を知らないのか、どちらなのだろうかと思うのです。私としては後者ではないかというのが(願望ですが)あります。
主体的に動くことができない子どもと関わるとしたら、私には何ができるのか。私が会ってきた不登校のお子さんの中にも「自分が食べたいものを選べない」という子がいました。食べたいケーキが選べないのです。二つしかないのに。初めは好みがないのかとか遠慮しているのかなとか思っていたのですが、とにかく主体的に何かを選ぶということが苦手な様子でした。その子に対しては『今日はこういう気分だから私はこっちを食べよう』とかなるべく彼女の選び方の選択肢が増えたらいいなぁと思い、ことあるごとに声をかけました。この関わりが彼女にどういう影響を与えたのかは残念ながら定かではないですが、私は不登校のお子さんの訪問活動をする際には自分自身の役割としてそういうもの(選択肢を増やす)も含まれているのではないかなと考えています。
この場合では選び方の選択肢でしたが、考え方の選択肢や感情の選択肢やパターンを増やすという部分も担う存在になりうると思っています。
また、援助をしていると援助者に対して被援助者を内面から服従させてしまう可能性があり、援助(care)をする際には適当な距離をとり、時には壁を作りなさいというお話がありました。これも自分自身に照らし合わせてみると、この適当な距離をとるのは非常に難しいことで、やはり訪問活動をしていると、そのご家庭に入ることになり、家族の方や本人と適当な距離がとれなくなってしまう可能性が多分にあり、このあたりは気をつけながら活動しなくてはいけないと思いました。また援助の姿勢として、東先生が何点か挙げられていましたが、これも活動をしていると見失いがちになる視点だと思うので、これを心にとどめながら日々自己点検をしながら活動していきたいと思っています。

◎ DSへのメッセージ(依田好照先生)

依田先生のかもし出されるオーラから、先生のような方が傍にいてくださったらきっとみんな元気になっていくんだろうなぁと思いながらお話を伺っていました。温かくゆったりと見守ってくださっていると生徒達は感じるのではないでしょうか。そんなオーラがまとえるようになりたいと思いました。
卒業生の方のお手紙を読んでいただきながら、「人を支える」ということは、どういうことなんだろう、私にできる「支えること」とは何か、と思いました。援助者としての自分を、自分の個性を確認したくなりました。これはこれから深めていきたいテーマです。
あと、さまざまなゲームを通じて先生がおっしゃっていたこと―『固定観念の見直しが必要である』―はまったくそのとおりで、常に自分自身を点検しながらやわらかくおだやかにほがらかにありたいな、とDSとして以前の自分自身に跳ね返ってくる講義でした。

◎発達障害をもつ子どもの理解と対応(名越斉子先生)

名越先生の講義はとてもわかりやすく、実践に即した対応のしかたについても丁寧に触れていただき、発達障害を持ったお子さんと接したことがほとんどない私としては、とてもありがたい内容でした。
しかし、その子どもの障害に合わせた対応の仕方はわかりやすかったのですが、いざ自分がかかわることになったとき果たしてどこまで機転が利くのだろうかと不安にもなりました。もちろんまだやっていないので今から心配するなんて気が早いとも思うのですが、それこそ自分の対応のレパートリーを増やすためには今後もいろいろ学んでいかなくてはならないなと思いました。
先生の講義の中では対応するときの具体的なポイント(根気よくゆっくりと体験的な学習をすすめる、その人のレベルに合わせてやっていく等)と、各障害別の対応するときの注意点を細かく教えていただいて、小学校の身障級の介助員をしていたときに知っておきたかったと思うことばかりでした。
私がかかわるとして難しいだろうと思ったのは、例えば知的障害のボーダーラインの子どもなどが抱えてしまうであろう二次的な問題や、学習障害の子どもの社会性・運動・注意・情緒などのケアをすることになったとき、自分自身はどこまで障害を理解してあげることができて、きちんと役に立つ活動ができるのだろうかという部分です。先生は『適度な経験をさせてあげること』の重要性をおっしゃっておられましたが、この適度をいかに見つけることができるかがポイントになってくると思うので、いろいろな経験をして勘を養っておきたいと思いました。

◎ 不登校―概論、DSとしての留意点―(馬場康弘先生)

馬場先生の講義では、他の参加者と意見交換をしたりするなかで、自分自身の不登校・登校・学校に対する考え方が確認できたり、他の人たちの考え方を知ることができておもしろかったです。
また、私は他の団体で不登校のお子さんとかかわっていることもあり、今までの自分自身のかかわりに対する振り返りがありました。果たしてあれでよかったのだろうか、私は何ができたのだろうか、私は何だったのか。
馬場先生はDSとしての活動について『相互作用でものごとが進んでいく、一方的ではない。相手の様子を見てやり方を決めてゆく』とおっしゃっていました。前半部分の相互作用でものごとが進んでいくと言うのは、実際自分自身でも活動をしていてそれは感じていることなのですが、相手の様子を見てやり方を決めていくという部分で自分はどうしてきただろうかと思ったのです。
今まで“この子とはこういうやり方でかかわっていこう”と考えたことがなかったのです。相手を見てこちらの出方を考えるというところまでは同じですが、その都度その都度、自分自身の役割を変えながら活動をしていて、『やり方』といえるところまではしてきていなかったなと。こういった場合の『やり方』というのはどういうことを指すのでしょうか。目標をもってそれに向かって活動することなのでしょうか?とても細かいことだとは思うのですが、このあたりは知りたいところです。
自分自身の学校観を問う必要性についてもお話がありましたが、先日の講義では自分自身の学校観がメンタルフレンドを始めた当初とは変化してきていることがわかりました。以前は“なんで行かれないの?”と相手を問い正したくなるような気持ちがありました。彼らが学校に行かれない理由が何故だか、まったく分からなかったので。
現在メンタルフレンドをしている私にとって学校という場所は、今でも決して行かなくていい場所ではありません。行けるものなら行ったほうがいい場所だと思っています。というのは学校は同年代の子ども達とかかわることのできる唯一の場所だからです。いつか社会に出て行くときにこの同年代の子どもの中で学んだことが必要になってくると思っているので、戻れるのであれば戻って行ったらいいと考えています。でも、行きたくなければ、行かれないのに無理して行くことはないと思っています。発達共助連のDSの考え方にこれは沿っているのでしょうか?これもDS自身の采配に任されているのでしょうか?
また私自身になかった視点として、子どものネットワークをひろげる存在としてのDSというものです。子どもを取り巻く環境を変化させるということでしたが、これはどこまでの環境のことなのでしょうか?一番小さな環境である家庭は第三者が入ってくることで自ずと変化してくると思うのですが、ネットワークということは地域も含まれているということですよね?そういった場合、DSとしてはどうやってその子どもの世界を広げていったらいいのでしょうか?この辺も知りたいです。
子どもにとってのDSがモデリングの対象であり、学習の遅れをカバーできる存在であり、今の子どもにポジティブなメッセージを送れる人であるというのは、本当にそのとおりだと思いました。
だからこそ、自分自身が彼らのモデルとして取り込まれたときにどのような影響を与えるのかということを留意しながら活動しなければならないし、再登校したいと思ったときに一番のネックになってくるであろう学習の遅れに対するケアができるよう準備も必要だし、ありのままを受け容れてあげられる存在でいられるよう心がけたいし、DSの果たす役割とその影響は大きいと思いました。
最後に各DSの持ち味が活かされて活動できるようにとのお話がありましたが、これを伺って、私は自分自身のやっているメンタルフレンドグループでのキャプテンとしてのあり方を見直すようになりました。DSの活動としてということとはずれてしまいますが、メンバーの失敗を心配するあまり、それぞれのメンバーが自分自身の持ち味を確認する前に私が枠を作ってしまっていたように思うんです。いろんなことをやってみて、失敗してみて、そんな試行錯誤の中から自分の持ち味がわかってくるわけですから。自分自身もそうだったのになかなかそうやって人を育てることができなくて、これからのキャプテンとしてのあり方を少し変えてみようかなというきっかけをいただいた一言でした。

<終わりに>

レポートをまとめてみて、『やはり経験してみてからいろいろわかってくるものだ』という感じを強くもちました。
基本は『自分で気づく』なんですね。これからこの三日間で学んだことを膨らませながら活動に活かしつつ、私独自の持ち味を探索していきたいと思います。書き始める前は弱気でしたが、今はとにかくやってみようと、そういう気持ちでいます。三日間どうもありがとうございました。
(駒澤大学大学院修士課程2年)

◆藤本 弥生さん

<教育学> 東先生

私は、この講義の中で特に印象的だったことは、”援助”という事をどのように考えるかということです。「援助をしている側に立ったとき、私はこれだけ一生懸命にやっているんだから、きっとプラスになっているはずだと思いこんでしまってはいないか」という先生の言葉は、常に自分に問い続けなければいけないことだと思いました。援助をしているつもりが、かえって子どもを追い込んでいるかもしれないという事はとても怖いことです。その一つに、「自由にしていいよ」という言葉の意味を改めて考えさせられました。というのも「自由」という言葉は、私たちにとってプラスのイメージがあります。でも、先生のお話の中で、「自由にしていいよ」といわれることによって、何をしたらいいのか分からない子どもにとってはかなりのプレッシャーになっていたということがよく分かったのです。プラスになると思ってしたことがかえってマイナスになることがあるということは、常に頭に入れておかなければいけないと思いました。固定した考えに縛られずに、時には発想を変えて柔軟な考えを持つことが必要なんだと思います。
 その他にも、”子ども”という概念はどのように生まれたのかという歴史やルソーの「エミール」の話などとても興味のもてるものばかりでした。

<DSへのメッセージ> 依田先生

先生のお話の中で、答えは一つじゃないということを特に実感させられました。「氷がとけると何になりますか?」という問いに対して、「水」という答えだけでなく、「春になる」「お酒が薄まる」という答えがあったことに感動しました。自分は固定観念に捕らわれているところがあるかもしれないと考えさせられます。また、先生の様々な体験のお話から、真剣に向き合うこと、それでありながら、余裕をもったつきあいが必要だということも学びました。真剣に受け入れて、分かろうとすることがお互いにこころを開ける関係になれるのだと思います。先生が子どもと接するなかで様々な工夫をなさっていることがよく分かって、とても勉強になりました。

<発達障害を持つ子供の理解と対応> 名越先生
これまでに大学の講義のなかで勉強してきた内容と重なるところはありましたが、プリントにとてもわかりやすくまとめられていたので、改めて、それぞれの障害について理解する事が出来ました。障害のある子どもと接する中で、どう対応したらいいのか戸惑うこともありますが、根気よくゆっくり、体験を通して関わっていくことが大切なんだという言葉に励まされた気がします。そして、「なるほど!」と思った中で、言葉の使い方の例がありました。”ちゃんと〜”とか、”きれいに〜”といった言葉は、普段何気なく使っていましたが、それを具体的に示すことでよりわかりやすくなるということです。こちら側が表現の仕方をもっと注意してみることも大切だということを実感しました。また、子どもがどれくらい分かっているのかを知った上で、生活年齢に合わせた対応だけでなく、社会的レベルに合わせた接し方も考慮しなければいけないと思いました。その際、あからさまな援助ではなく、うまく動機付けをしながらもっていくこと、自尊心を高めてあげるということは、今まさに自分が要求されていることだと感じました。この講義の内容を思い出しながら、今後、接していきたいと思います。

<不登校> 馬場先生
不登校に関して、まずは一般的な定義についてよく分かりました。そして、先生自身、これまでに何年もの間、不登校の子どもたちと関わりを持ってきたということもあって、「とにかく接してみて、子どもとの関係を作ることです」という言葉に、妙に納得してしまいました。具体的に、どうしてあげるということではなくて、自分と子どもの関わり合いをよく見ることが大切なんだということが分かりました。それから、あまり話したことのない人とディスカッションをする時間がありましたが、
最初はお互いに探り合い、そしてそれぞれの意見を聞くことによって新しい発見をしました。不登校の子どもと関わるときも同じ様な感じなんだと思います。まずは人と人として関わることでお互いに相手について知り、自分も成長することがたくさんあるのかもしれません。もちろん、それだけではないと思いますが、相手をよく知ることから始めることで、何かが開けていくのだろうと思いました。

◆竹中 良太 さん

人の発達を考える〜幼児期までの発達のようすから〜

人がどのように成長、発達をしていくのか、その中でどういう変化があるのか。 そしてそこでの大切な事、問題点のお話しでした。
赤ちゃんは一見無能力、大人の助け無しでは生きていけない、人は生理的早産の状態にある。 しかし早い段階から高い能力を発揮、お腹の中でも音を聞き、生後すぐに嗅覚、痛覚、視覚などが備わって行く。7〜8ヶ月までは反射運動が多いが、それ以後は意識的な運動、アタッチメント、人見知りなどが起こって行く。そこで親子と関係の基礎、他人との基本的信頼関係が生まれてくる。
ここでは「応答性のある環境」作りが大切で、応答性にかくとサイレントベビ−を生む原因にもなり、それが成長過程に大きな影響を及ぼす大切な時期である。
幼児期は遊びの時代、遊びの中からいろいろな事を学び、能力を高めて行く。自分以外の物の意識からまた自我も芽生えてゆく。この自己意識はあやふやで危うく、意識がゆがみかねない。
そして反抗期、これには2回あり、反抗していくなかで自分の能力を知り、自分の意識で行動、自立してゆく。この反抗期という名前には、逆らう、素直でないといったイメ−ジは先行しがちで、自立期の表現のほうがより良く、またこの時期にもそれまでの養育行動を続け、能力の成長を阻害すると、自分ではなにもできなくなりかねない。
まとめとして、人は生まれながらにして人か。
本能的領域は狭く、人として育って行く為には手間、暇が大切かつ必要、母性本能も神話的で、プレッシャ−から育児ノイロ−ゼにもなりかねない。そして何より子育ては誰がやるのか、愛着行動のとれない状況は人間不信にもなる、という子育ての必要性のお話しでした。
この話しを聞き、私はある意味、当たり前だと思いました。親が子を責任を持って育てる、愛情を持って育てる事によって、こどもの「健全」な発育が生まれる。しかし、この当たり前は至極大切で、難しい事だと感じました。子どもの発育過程を知り、また世間の当たり前と本当に必要な事との見切り、そして愛情と手間。
DSとしての自分の役割、あり方についても考えるものがありました。何が出来るのか、何に注意すべきか。これらを踏まえた上で手探りでやって行くしかないのですが…。加藤先生のテンポの良い話しは面白く、飽きないものでした。

◆柴田 明香 さん

発達心理学 加藤先生

〜幼児期までの発達の様子から〜ということで、今まで知っていた赤ちゃんのこと以外の大切なことを今回吸収できたと思います。
一番驚いたことは、人間には母性本能が無くなってきたということでした。若い母親が育児ノイローゼなどになりやすい原因として、周囲の目もあるということに気づかされました。だからといって、放っておく事はいけませんが、周囲の人も、「母親なんだから」などとあまりプレッシャーを与えてはいけないと思いました。周りの人とも協力しあいながら、赤ちゃんを育てていくことが大切だと改めて理解することが出来ました。

教育学 東先生

「主体性」のもつ本当の意味をとても考えさせられました。子どもの誰もが幼い頃から同じように育てられているわけでもないのに、集団の中に入ると画一的に見られる。しかし、今度は自分のやりたいようにやってごらんといわれても、皆と同じであることを鵜呑みにし、従順というか素直に従ってきた子どもにとっては、それが出来ないということがあると知りました。私は学校が大好きだったので、不登校の子どもの気持ちを理解するのは大変ではないだろうかと思わされました。

D・Sへのメッセージ 依田先生

DSになる=人間性を磨き、懐の深い、大きな人間になることだと思いました。そして、答えは一つではない、自分も多様な考え方を育てなくてはと思いました。

発達障害 名越先生

私の専攻は障害児教育ということで、とても興味深く聞かせていただきました。「ボーダーライン児」という言葉を初めて知り、間にいるということはとても辛いことだと思いました。普通に出来るところと出来ないところという「苦手なだけじゃないの?」「努力が足りないんじゃないの?」というような目で見られてしまうのだろうと思いました。
どの様に学習しているかというところも少し見ることが出来てよかったです。

不登校 馬場先生

私は学校が大好きでいつも楽しく通っていたので、不登校になる子どもの気持ちを全くといっていいほど理解していないと思いました。一度、無視をされていきたくなくなったことがありましたが、すぐに仲直りしてしまったのでやはりあまりわかったいないと思います。こんな私に出来るだろうかと心配になりました。でも、何も考えずに、その場を楽しむという心や体も大切ではないだろうかと思います。私に出来ることはあると思います。それを出来るように自分を高めていきたいと思いました。

◆三関 里奈 さん

・発達心理学

大学の授業で習ったことの根底にある部分を懇切丁寧に教われてよかったと思います。とてもお話が上手で聴き入っていました。教育行動の説明を聴いて、親子関係の仕組みってうまくできているのだなぁと改めて思いました。この時期に築かれる親子関係が成功するか否かで、今後の親子関係も変わってくるのではないかと思われるので、この時期の親子関係がいかに大事かということを痛感しました。また、親が赤ちゃんからの働きかけにきちんと応じて絆を深めていくこともとても大切だと学びました。赤ちゃんに何らかの障害などがあって愛着行動がうまくできないとしても、親が子をかわいくないだとか憎らしいと思うのではなく、絶えず子を受け入れている姿勢で親からは何かいつも子に発信(気持ちの面で)している状態が好ましいのではないかと私は思います。赤ちゃんにとって親との関わりが、生まれて最初の人との関わりだと思うので、親子関係は発育していった後の対人関係にも強く影響するのではないでしょうか。
子育ては誰がやらなければならないのかという問いかけですが、私は、親だと思います。どうしてかと聞かれてうまく説明はできません。ただなんとなく答えてしまいそうです。自然の摂理というのか、本能(動物の)といえば良いのでしょうか。子供を産み、その子供を育てる。血のつながりというのも関係してくると思います。特に母親は自分のお腹を痛めて生んだというだけあって、子に対する愛情も絆の深さも理屈では言い表せない何かがあると思います。私は子供を産んだことはないので、わかりませんが、やはり母とこの間には何か目には見えないつながりがあると思います。ということは、子にとって親はほかの人とは違う特別な存在だと思います。この特別な人に育てられていくことに意味があるのではないでしょうか。

・教育学
興味深い資料がいろいろありました。HTTPの絵ではリアリティーに欠けている絵が多く、学級崩壊がある子の絵など見てよく納得ができました。絵のどこかしらに子供の気持ちが反映されているんだと思いました。
「内部に熱中する人々の群れ」という記事を読んで、確かにそうだなぁと思う部分が多かったです。「私探し」「心理学」という言葉に魅せられて本を購入したことが何度もある私にとって自分のことを言われているみたいで、身につまるものがありました。
そして私がもっともショックを受けたのは補足でもらったプリントの子育てに対して不安を持っている母親の文章でした。自分の子供を殺してしまいたいだとか、面倒臭いなど恐ろしいと思いました。自分のことしか愛せないのだと思います。自分可愛さあまり、自分の子供が自分を振りまわすわずらわしい存在になっているのだなと思わせる文章でした。人間の冷たさを感じました。しかし、そういう親のみを責めるべきでないと思います。親自身何らかのトラウマがあり、そういう行動に出てしまうのかもしれません。環境の改善をして、もっと恐ろしいことのないようにすべきことだと思います。

・発達障害
今、ちょうど大学でも同じ授業を受けているのですが、大学より具体的でわかりやすくて良かったです。私は作業療法の勉強を大学でしているのですが、WHOのICD−IDH(impairment,disosility,handicaps)はリハビリテーションの治療プログラムを立てるときに基礎となります。作業療法は小児の障害を持つ方に対して、運動訓練や感覚統合などを行うことが中心となります。脳性マヒや筋ジストロフィーといった身体、運動面に障害が目立つお子さんについては割と深く勉強しますが、LD、AOHD、自閉症については触れる程度しか勉強しません。(大学の授業においては)そのため、今回の先生の講義はとても役立つものになりました。また、私は将来、作業療法士として、自閉症やLD、AOHDのお子さんに関わっていきたいと考えております。今回、教わったことをこの先の実習など臨床の場で多く役立てていきたいと思っております。
先生と個人的にお話することもでき、私自身とてもよい勉強ができ、参加してよかったです。
またぜひ先生の講義を聞きたいと思います。

・不登校
最近よくニュースやテレビ、新聞などに取り上げられている“不登校”について勉強しました。定義やタイプ、原因などについての実際を学ぶことができました。また、グループでの話し合いを通じて、改めてその日とその人の持っている学校観は違うのだなと感じました。それはその日とその人の過ごしてきた学校生活が違い、その中で感ずる気持ちにも違いがあるからだろうと私は考えています。
不登校の裏には家族関係、友人関係など何かしらの周囲の環境が影響していると思います。誰かkey personとなる人を中心に環境の改善ができると、本人の意識も変わってくるのではないでしょうか。
私は学校に行くのが良いだとか、行かないことは悪いだとかそんな風には思っていません。ただ、何もせず、家の中に閉じこもってしまうことは避けたほうが良いと思います。学校に行かないなら、いかないで、何かほかの活動(趣味)をしたり、自分の中に閉じこもらず外に目を向けさせることが大事だと思います。

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