初期ディベロップメンタル・サポーター

鈴木加代子の「北海道から今日は」

はじめに
鈴木加代子さん(旧姓、正木加代子さん)は、伊澤先生とともに発達共助連を創設した学生グループの一人だった人で、現在、北海道で高等養護学校の教諭をしておられます。その鈴木さんのエッセイです。発達共助連について、Developmental Supporterのあり方について、体験からの貴重なご意見になっています。
なお、このエッセイ集は「発達共助連通信」の1998年6月から1999年1月にわたって掲載されたものをまとめたものです。

1・伊澤くんというもの

2・十人十色

3・レスパイトケア

4・学ぶということ

5・学生家庭教師の役割

6・発達共助連

7・自分というもの

8・ハードル

 

◆その1 「伊澤くんというもの」

伊澤くん、それは私が今まで生き、触れ、目にしてきた数々の人の中で、一番"アー"とびっくりした人物であった。
だって、この人、私の中にこれまで培ってきた全ての常識を、ことごとく打ち砕いてしまった人だったんだもの。
出会いがしらにその大きな目で見つめられ「まずは、来い!」とつれていかれた先がなんてったって「鬼無里」(飲み屋)。「なんじゃこりゃ!オイオイ、挨拶はいったい!あの、やっぱはじめはコーヒーに履歴書でしょーが!!」「なんで会社の人みんなもう酔ってんの?」
怒りでバクハツしそうになった10年前だった。
ブッキラボーだがいつも心を見透かされ、何でもズバズバ言うこの人。私が必死に書き上げた自信のレポートも一瞬でキャッカ!「何だこの人。くそ!いつか絶対ほめさせてやるんだ!」の一心でくらいついていった感がある。ん−、その目だな。その大きな目がたまらんの!ひとえの私にはたまらなく恐ろしくかつ魅力的であった。
会社の社長でありながら、心理判定員で、ギターもつまびく、釣りもすれば、マンガもバクバク読む。人形劇もする。その上、この上ない才女で美人の奥さんとはなんたることか!もっとびっくりしたのは、ふと見わたせば、まだまだいたいた大変な人達。仕事もできる。遊びも達者。興味は多いし、川ありゃ飛び込む。こんな人達に秋田のけがれなき良家からきたお嬢さま育ちの私が、合うわきゃないのよ。そーなのよ……と思うまもなく、今ではもうこの人たちなしの、伊澤くんなしの人生が考えられなくなったしまった自分って一体……。
伊澤くんはじめ、このフシギな人たちから私は「仲間づくりの方法と自然と共存する方法、考える際の基本概念と生きてくために伸ばすアンテナの向け方、そして本当に学ぶこととは何であるか」を一から教わった。まさに学校では教えてくれない本当の生き方を知った。この伊澤くんとその仲間たちは私の一生の目標であり宝です。
学生諸君!早くこの幸せ、ありがたさに気づきなさい。もっとこの人、この人たちを観察し、吸収しなさい。日本でも、いや世界でも類を見ない人、集団です。本当の常識を追いもとめたい人は、しっかり寄りそいなさい。
〜なんか最後、伊澤教のようになっちゃいました。
この文は宗教とは一切関係ありません。
(「発達共助連通信」1998年6月号)

◆その2 「十人十色」

十人十色ということわざがあるとおり、我々が出会う子供達はまさしく十人百色というべき個性をもっている。同じ親から生まれてしても見事にちがう色をもつから面白いものである。
姉妹で共に不登校に挑んだT子とC子も全く異なる性格をもち全く異なる不登校ぶりをくりひろげた。母親離れができずに心身に異常をきたす内気なT子と、「お姉ちゃんが学校いかないのなら私もヤーメタ、小学校。でも中学からは行くもんね」とキッパリ宣言のしっかりものの妹C子。陰と陽、黒と白とばかり全く正反対二人であった。
だから「不登校打開策」も当然別メニュー。常に内面から迫り、細かなスッテプをふみ、心身の解放とリラックスをはかったTに対し、行動範囲を広げ補習を行い、社交性の維持につき進んだC子。
個別に対応する一方で、時に互いの意識づけをさせ、協力させるために行った行動メニュー、などその時その時の状態をチェックする中でプログラムを作成し、実行し、記録としてまとめてきた。
そうした中でも常に念頭においてきたのは、学校との連携、家庭との連携、地域との連携である。学校に対してはいつ、いかなる時に本人が出現しても自然な形で受け止めるようつとめてもらったこと。家庭に対しては親としての威厳を保ち、本人に気がねや遠慮することなくふつうの子の自然な生活サイクルで接するようこころがけてもらったこと、もちろん日々の指導の目的と結果は本人と離して説明し懇談してきた。また、地域に対しては顔なじみのところに多く行く中で、本人とのコミュニケーションをとり、自然な形で接してもらったこと、などがあげられる。
幸い二人共、私より数倍料理とオシャレが上手であるという得意技を持っていたため、その分野に関しては互いの立場を交換して接することができたため、実は今だに私を「先生」と認めていないらしい。また二人の口癖は「先生のくせに、私たちは何一つ勉強を教えてもらったことがない。」である。
「フン〜ダ!私は、君たちに本当に大切な本当の勉強を教えてやったんだゾ!。まいったか!」と、こちらも強気である。さて、今一つ、考えて頂きたく思う。本当の勉強って何だろうナ!ハイ、それは『生きる力』を身につけることだと思うのだが、いかがなものか。
私は彼女たちに「自分の力を生かして、弱い部分を助けてもらい、最後には自分の力で歩いて行く方法」をほんの一部だけ教えてあげたし、逆に彼女たちからは「おいしいご飯の作り方とステキなオシャレの方法とかわいいお嫁さんになるテクニック」を教わった。
まさしく『共助』したのである。たまたま歳が上だから「先生」と呼ばれてしまったけれど、私にとっては、彼女たちがまさしく「先生」なのである。
(「発達共助連通信」1998年7月号)

◆その3 「レスパイトケア」

「レスパイトケア」-こんな言葉が流行り出すそのずっと以前から、私たち発達共助連は自然の形でそれを実践し、共に創りあげてきた。なぜなら家族と本人は決して切り離せるものでなく、時間はいつでも平等に過ぎてゆくからに他ならない。
中津川に行くと、親も子も共に自分の存在を大切にし、主張する。ここでは主張のないものは食べることもできず、遊ぶこともできず、楽しむことができない仕組みになっているからである。食べたい者が自然と格闘しながら火をおこし、箸を作り、うまさと満腹を追求しながらつき進む仕組みだからである。自分に真剣になることで同時に他を意識する芽も育つ。「アイツのカニのつかみ方はうまい!」「はしをこうやって作るのか?」「水の中にはこう入るべし」などなど…自然に解き放たれた中で親は子を再発見し、子は親を再確認する。
障害があろうとなかろうと個を個として認め、共に同じ時間を楽しむ瞬間がそこにある。本人と家族を切り離すレスパイトケアが現在流行しているけれど、本当のレスパイトケアは、共に過ごす中で互いが個の存在を認め、安心して受け入れ、共にゆったりとした中で時を刻めることにあると思っている。中津川キャンプはそんな役割を担う、真のレスパイトケアだと自信をもとう!
[(注)レスパイトケア:本人だけではなく、家族を含めた形で行うケア]
(「発達共助連通信」1998年8月号)

◆その4 「学ぶということ」

学校生活を振り返ってみて「何を学んできたか」を尋ねられると、何と答えられるか!「仲間のつくり方、けんかの仕方、仲直りの仕方、自分の主張の仕方、押えかた…」とは言えるけど「〇〇の勉強」とは全く言えない。なぜか!それは、自らが意欲と目的をもって取り組んでこなかったからである。勉強はあくまでも先方から与えられたものだからであり、差し当たり必要に迫らなかったからに他ならない。
けれど、今は違う。先日「どうしても」というので、転勤する先生から死にかかったホワイトの金魚をもらってしまった。「しまった!」といってももう遅い。相手は金魚とはいえ、れっきとした生き物である。「死」がつきまとう。これは大変。3歳の娘は、「おきんぎょちゃあん」と言って大喜びである。
「金魚の生かし方」が必要にせまられてしまった。やばいやばい。あわてて図書館に行って本を借り、読みあさった。「金魚」の文字に注意を払うようになった。いろんな人に聞いて情報を集めた。そして少しずつ「金魚」について学んだ。30年生きてきて初めて「金魚」を知り学んだ。学校でも習ったはずだったが、そのころは自分と関わりがなかったから頭からすぐにとんでった。今は違う。これが本当の勉強、学びである。
子どもたちについてもそうである。一人の子を任された以上、その子のことを本気で学ばない人はお金をもらってはいけないと思う。その子を知ることは家族を知ることであり、その子を取り巻く地域を知ることであり、その子の関わる全てのことを知ることでなくてはならない。「学び」の要素は実にたくさんある。奮闘しなくてはならない。
ちなみに私は自分の子をもうけて、ただ今3歳児についての「学び」を実践中である。なんと面白いことか!思っていたよりすごく3歳児は頭がよくって人間そのものなのである。30歳が3歳に大負けの日々である。
(「発達共助連通信」1998年9月号)

◆その5 「学生家庭教師の役割」

親ほどの親密さ、主観さもなく、学校の教師ほどの堅苦しさ、狭さもなく、近所、地域ほどの近さもない。そんな決まり切った濃さのないのが私たち学生家庭教師の存在である。
だから一見したところ、その存在はとても薄く、頼りなく、一時的なものに考えられがちであるが、そうではなしに、だからこそ担うべき責任の大きさと力量が問われる存在なのである。
親にはない客観さを持ち、学校の教師には持つことができない自由な発想と展開が作成でき、近所、地域にはない、離れることのできる関わりを持てるという我々の利点を生かすことで、現実と向き合って苦しむ本人や親をしっかりとサポートできるという自信をもって取り組むことである。
この立場を充分にわきまえて接するなら、なかなか関係を深めつながることができにくい、本人=学校=親=地域=医療の一体化、連携が可能になる。“自由”な立場であるからこその特権であり、我々に課せられた任務である。よりしっかりしたパイプ役になられることを望んでいる。
ただの遊んでくれる、勉強を教えてくれる、やさしいお兄さんお姉さんで留まり、終わってしまってはいけない。私たちは子供たちから見ればただの通過点に過ぎないけれど、それでは何の意味もなさないことをいつも念頭に入れておく必要がある。子供たちには「自分の力で自分が変わった」と思える自信を培ってあげ、親には「自分の努力と見方の変化で子供がわかった」と思える安心感を与える仕事をすることである。
何年か後出会う時「先生」としてではなく「一個人として」出会うことができたら、これ以上の喜びはないだろうと思う。今ある学生という立場をどうか大切にして下さい。
(「発達共助連通信」1998年10月号)

◆その6 「発達共助連」

はじめは伊澤先生と一部学生で始まった個々のケア・勉強会が日を追うごとに巨大化し、多様多才な人脈での構成となった昨今、「何かこの団体に名をつけよう」と 考え、そして生まれたのが「発達共助連」。読んで字の如く、「共に発達し合う仲間たちと場を共有し支え合う組織」からなる「発達共助連」。
「援助」でも「治療」でも「支援」でもなく、「共助」としたところに意味がある。
そして「連」。そもそも「連」とは「連中」の意、そして又「いくつかのものを一続きにしたもの」の意、さらに「同じ目的に従っている者同志が、互いに連絡をとり、協力し合って事を行うこと」の意をなしている。
有名な阿波踊りの一団体も「連」である。つまり、普段は個々それぞれがバラバラに互いの生き方をしている者らがひとつの目的に従い、いざというときには仲間同士がそれぞれの持ち味を生かし、互いに連絡をとりながら協力し、団結し、事を成すことなのである。
「発達共助連」には、こうした深い意味があることを認識する必要がある。
つまり、一人一人が連の必要な要素になりうるのだということである。自分の持ち味は何かを考え、日々自分を磨いておかなければならないのである。
あくまでも「共助」であり「連」なのである。
一方から与えられるばかりでは、会が行きどまるばかりなのである。
(「発達共助連通信」1998年11月号)

◆その7 「自分というもの」

いろいろな人に関わって行く中でフト思うことは「自分って一体何だろう?」の疑問である。自意識過剰の私は、いつも体の右端にもう一人の自分がいて笑っても泣いても、もう一人の自分がじっくりと「ん、今の涙はこうだなぁ」「今の笑いは下品です」といっている。他人が自分をどう評価するのかがすごく気になり、他人を出来るだけ敵にまわしたくないとの念が働いて、思わず八方美人してしまい思い切り疲れたりしている。
教師生活ももう6年めを迎えると、いつもいい顔、平和主義もしていられず、この頃は 出来るだけ思ったことを即爆発させるようにしている。(でもまだまだ気は小さいので言う前は必ずメモに言うことを書いてから爆発している。結構こっけいだけど!!)
学校にいると現実の生徒そっちのけで職員の体制の良さのみを追求した発言がとんだり、グチッたりする者が多く、そういう時は思い切り爆発することに決めている。自分を主張することは難しいくせに「自立せよ」というと自分に恥じるから、生徒に言う分、自分の首も絞めることにしている。
「教師ほど非常識なやつはいない」と主人公は言うが、この頃はそれがよく分かるようになってきた。教師だからこそもっと視野を広げ自分を大きくせねばならないと思う。「生徒のやりやすい道をつくる」ことに気を配って5年であったが、今は「生徒が自力で越えられるハードルをおく」ことを念頭においている。
ちなみにわたしの越えたいハードルは現在のところ、主人と伊澤先生である。「うん!目標がある」っていいことだ!よしよし !!!
あっ!そうそう本題からそれたが「自分というもの」、その正体は未だにナゾであり、未だに創作中である。が、誰がなんと言おうとも、また、未だかつて誰も言ってはくれないが「美人でステキな人」と自分の心にはいつも言い聞かせている自分である。
(「発達共助連通信」1998年12月号)

◆その8 「ハードル」

生の中で、越えなくちゃならないハードルはいくつもあった方がいいとこのごろつくづく思っている。平穏無事な中でずっとすごしていると考える力や感じる心、他人の気持ちの理解力などがどんどん鈍くなってくる気がしてならない。
あえて自分に課題を課し、逆境を与えることで、その苦しさにもがいてあえいでハードルを越えるための方法論を探っていこうとするパワーが生まれてくる。その苦しみを越えた時のスッとした爽快感は何にも勝り、そこでまたひとつ自分という竹にしっかりとした節を作ったことに感激するはずである。
竹は節がないと雨風や嵐に負け、すぐに折れ曲がってしまう。しかし、そこに節があることで雨嵐の中でも肢体をしなやかにゆらし、順応し、自然界のきびしいハードルを越える。そんな竹のようなしなやかな心と体を持ちたいとつくづく思うのである。
家庭教師として子供たちとかかわるとき、その子らが越えなければならないハードルは我々に課せられることになる。越えようとする意欲を育て、その方法論を自らに考えさせ、そして越えた時の爽快感と満足感を与えるのが我々の役目である。
ハードルは低すぎず、高すぎず、その時その時の一人一人の状況に合わせて作り上げるテクニックを磨かなくてはならない。よって日々の記録は必要不可欠、とても重要な役果たす。
ハードルにつまづいて、自信をなくした時、「おまえは○○の時、これだけのことをやった。覚えているか!それからもう○日もすごして成長し、今やるべきことが○○である。やってみろ!」と確固たる証拠と信念をもって指導することができる。その場しのぎで「がんばって!」などというより数万倍の威力と説得力がある。
子供に課すハードルを研究する一方で、私たちは自分にも課す人生のハードルを設定しなければならないとつくづく考える今日このごろである。ちなみに私が今自分に課しているハードルは、このレポートである。きつい !! 。もはやころびかかっている。
(「発達共助連通信」1999年1月号)

(完)